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フランス事情
ついに、フランスの政府が、民衆の抗議デモに屈した。
日本でも格差社会とか、階級社会などと近頃とらえられているけれど、フランスは、もっと厳しい。もともとの階級社会的な要素に加え、移民を多く受け入れているので、毎年大量に流入してくる移民たちの、対策が、長年おぼつかない。
今回の騒動の発端は、移民2世3世達の暴動から始まったが、それに追い討ちをかけるかのような悪法の強行採決に他の若者や民衆も立ち上がった。
民衆は、蜂起し300万人規模のデモが続き、ストライキも相次いだ。
さすがの政府もぎりぎりまで粘ったが、耐えきずその元凶のひとつ悪法の撤廃を宣言した。
しかし、フランスの抱える問題は、まだまだ深い。元凶の一部を取り除いただけに過ぎず民衆の抱える根本的な解決にはなっていない。
根強い雇用対策に対する不信感と増え続ける移民の問題をどう切り抜けるかという最大の難題をまだまだ抱えながら、試行錯誤するのだろう。

この問題をこと日本に置き換えてみるとどうだろう。
このような問題は近い将来日本でも起こりうる問題だと思うが、私は、民衆レベルの意識の差を大きく感じた。
日本でも社会に鬱積した行政、政府への不信感や、憤りを隠せないほどの社会への不信感というものが、個々の案件について、ふつふつとあふれてくるマグマのように、権力の側から垂れ流されている。利権や甘い汁を吸い尽くそうと企む一部の権力側に立つ者の宝庫である日本でも、根強い問題を大きくはらんでいる。
しかし、どうだろうか。フランスのように、民衆が大きく立ち上がることがあるだろうか。
つまり、自分の仕事、食い扶持(ぶち)をいったん放棄して、ストライキに参加する勇気が、あるだろうかということである。
フランスの民衆は、今回、公務員も含めて若者のためにストを決行し、結果的に政府が、提起した悪法を、退けた。
日本から、見ていて羨ましくもあり、たいへん圧巻だった。政治権力が、ゆがんだ道に入ってしまえば、直接民衆の意思表示によって、行動を起こす。
こんな習慣が、日本にもし根付いていたならば、現在に至るようないわゆる公(おおやけ)を背負っている政治家や、官僚のくだらない横暴はくい止められただろうと思うのである。
日本人ももっと、民衆が、立ち上がるべきだということを言いたいのである。

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テーマ:時事 - ジャンル:政治・経済

【2006/04/11 08:59】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
生きること
生きることとは、自分を信じることに他ならない。

しかし、生きていると、絶望の淵に立たされ、己を見失い、自分を信じられなくなって、いっぺん死んでみたくなる事が、1度や2度必ずある。
また、これも事実だ。
人間は、そういう生き物なのかもしれない。

他の生き物が、おもに種の保存に全力をそそぐのに対し、人間は、あまりにも脳みそが発達しすぎて、多様になり過ぎ、それがかえって首を絞めることになっている。

愚直なまでに、種の保存を続けて、地球を形作ってきた生物に学ぶことは多い。
人類も、そろそろ人間以外の動植物の偉大な愚直さを学ばなければ成らない。
自らを信じて、生きることとは、そこから、発しなければ、人間は、過ちばかりを繰り返して、きりがない。
動植物たちが、太古より、培ってきた偉大なる愚直さにより、地球は、守られてきた。

人間も、自分を信じ、愚直にまっすぐ前を向いて歩き出せば、もっと、気持ちよく生きられるはずである。

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【2006/04/04 12:38】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
春先の季節感
日本の春先というのは、天候も不安定で、気温も不安定である。

そして、ほどなく桜が開花して、春という季節の区切りとして、とらえるのが、この日本では、慣例となっている。

季節柄、気候のように、希望や不安が入り混じって、周囲の世相も不安定になって、落ち着かないというのが、日本の春先ではなかろうか。

日本の歴史の中では、満開の桜の樹の下に立つとき、気が狂ってしまうという迷信が、長く信じられていたようだが、例年の花見客や、日本固有の季節感を、加味すれば、まんざら昔の迷信も、現代においても、外れてはいないような気がする。

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【2006/03/29 17:25】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
春先の季節感
日本の春先というのは、天候も不安定で、気温も不安定である。

そして、ほどなく桜が開花して、春という季節の区切りとして、とらえるのが、この日本では、慣例となっている。

季節柄、気候のように、希望や不安が入り混じって、周囲の世相も不安定になって、落ち着かないというのが、日本の春先ではなかろうか。

日本の歴史の中では、満開の桜の樹の下に立つとき、気が狂ってしまうという迷信が、長く信じられていたようだが、例年の花見客や、日本固有の季節感を、加味すれば、まんざら昔の迷信も、現代においても、外れてはいないような気がする。

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【2006/03/29 16:16】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
WBC祝優勝
この一週間、WBCの優勝で、日本中が湧いた。

随分と野球離れが、昨今叫ばれ、プロ野球界も、小手先ではあるが、観客を呼び戻すため、頑張っていた矢先だったので、渡りに船と言ったところか。

しかし、私は、小学生の低学年の頃以来、愚直に野球を深く愛し続けてきたので、また、違った感慨がある。

とにかく、日本の野球は、強かった。そのことが、実証されただけで
なんとも誇らしい気分になる。

今でも、毎日素振りをしたり、ランニングをして、野球小僧を続けている私にとって、この結果は、なおも野球に対する愛情を助長させるものとなった。

王ジャパンが、残してくれたサムライ魂を、私なりに、グランドでぶつけていきたいと思う。

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【2006/03/24 15:34】 | 未分類 | トラックバック(1) | コメント(0) | page top↑
WBC(野球の世界大会)
私は、野球狂である。

文字通り、明けても暮れても、野球のことを考えている。

野球なら、何でもいい。少年野球から、MLBまで、とにかく野球を心から、愛している。

私自身も、しがない草野球チームを運営して、シーズン中の週末は、ほぼ野球をやっているが、まだまだ、やりたい。
つまり、やってもやっても、まだ、やり足らないのが、私にとっては、野球なのである。

私のような野球狂にとって、現在行われているWBCは、まったく夢の戦いである。
国別対抗でやったら、一体どこが強いのか。
多くの障壁を乗り越え、やっと、実現したこの大会。

いろいろあったが、わが国日本が、世界一になるまで、あと一歩のところまで来ている。
日本代表の戦いぶりは、私にとっても、大勢の日本の野球好きにとっても、誇りにできる戦いぶりである。

あと一戦、キューバ戦に勝って、より大きな勇気と自信を日本に持って帰ってきて、欲しい。

勝利を信じて、全力で応援させてもらう。

ガンバレ!!
王ジャパン!!


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【2006/03/20 11:13】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
やっと、春が来たかんじで、日々あたたかい。

巷では、さまざまな事が、桜の花が満開時期とともにスタートを切る時期でもある。

私も、何か、今までにないことを探して、はじめてみようか。

些細なことでも、はじめてみて、それを継続していくことが、自分を腐らせない方法のひとつであることを、知っているから。

チャレンジすることを、いつまでも探して生きていきたい。

そんな、初春のありふれた日である。

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【2006/03/10 15:34】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
何かをやってのけること。
人は、人生の中で一度は、死にたくなるようなことに出くわす。
生涯、爛々として、前ばかり向いて、生きられるものではない。

時には、後ろ向きになってしまうことが、人間の性(さが)である。
これは、なんぴとたりとも、避けられないような気がする。

そんななか、人は、唯一認められた100%の死というものに向かって一歩一歩、歩んでいる。しかし、ある人は、駆け足で過ぎて行き、ある人は、止まりながら進んでいる。

それと共に、それぞれの宿命のようなものを背負って、進まねばならない。そして、その宿命をのり越えることによって、人は、また、大きくなれる。

限られた人生のなかで、何かを成し遂げるということは、そういうことなのかも知れない。
山、谷のり越えて、這いつくばって生きぬくことが、何かを成すことのひとつなのである。

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【2006/02/14 01:38】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
いさぎよさ
日本人は、古来から、「いさぎよさ」というものに好意的だ。

人間は、常に浮きつ、沈みつつ、右往左往して生きなければならない宿命を持っているので、いざ、というときにいさぎよい振るまいというものを、なかなか、できるものではない。

日本史の中で、戦国時代や明治維新が、現代の人々に多く興味をもたれるのは、登場人物の生きざまのいさぎよさに共感する部分も多々あるように見受けられる。

私は、これを身につけるためのひとつの方法として、何か、人生の中で、ひたむきに馬鹿になれるものをみつけて打ち込む姿勢を身につけることだと思う。

ひとつでも、その何かを、すでに見つけそちらに向かっている人は、人間的にピンぼけしにくいと思うのである。

ひたむきに馬鹿になって打ち込む、それが、いさぎよい生きざまへの突破口のような気がするのである。
   「ひたむきな、いさぎよい生きざま」
まさに、私が望む人生の方向性である。
しかし、なかなか、むずかしい。
いやいや、むずかしい。

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【2006/02/09 01:36】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
おかしな国
日本という国は、おかしな国である。
国の借金が、いくらあるか、本当の数字を、政治かも、官僚も、誰も知らない。
それなのに、自他共に経済大国を自負し、援助金を海外にばらまく。
日本国内では、年金、税金、その他、お金が足らない足らない足らないといって、微にいり細にいり一斉値上げである。

それなのに、国の執行係を担っている、政治家も、官僚も、天下り先のどうしょうもない面々の給料のカットは、微々たるものである。

彼らのような、自らが作った守られたシステムの中からしか、物が言えない連中の言うことなど、全く信用ならないのが、現状なのである。

堅牢な城や砦を築き、たてこっもったまま、一般市民を、城の外において見下ろすやり方を、いつまでも続ける風土に民主主義などという面影はない。どこまでも、まじないの上で踊らされている民衆を生み出し続けるシステムに他ならない。

いつまで、一般市民が、国を持ち上げ、一部の低モラル特権階級が、国の価値を下げ続ける構造が、続くのか。

じつは、日本という国は、天下国家を、大きく張り上げる連中が、国を、疲弊させ、財政を浪費し、国家のモラルや、文化さえも破壊し続け、それに対し、年中油まみれで働き続ける工場の作業者や、パートの主婦の方々など、ごく一般的な庶民が、生活苦の名の下に、国を大きな力で支えているという現実を、はっきり、連中は、認識しなければならない。

大きな政府、小さな政府などと念仏のようにの唱えている安っぽい政治家が目立つが、その前に、彼ら自信の数を、半分以下に減らす努力をしたらどうか。
議員として、国会に出て、居眠りをしている輩に払う、血税を削ってから、ものを言うべきである。

名ばかりの、民主主義など、のうのうと国のためになどという虚言を続ける輩の懐を肥やすためだけにあるだけである。

もっと、普通の良識に政治という分野から触れることはできないものか?

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【2006/02/06 13:07】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
政治と人
政治と人との関わりあいは、古来より、全世界で試行錯誤されてきた。
そして、今日に至っても、試行錯誤を続け、そのベストの方法で歩んでいる国というのは、なかなか見当たらない。

絶対的多数を占める民衆が、いかに、はつらつと、心地よく日々暮らせるかの度合いによるところが大きいだろうが、およそ政治というのは、本来の意味をかけ離れて、大なり、小なり、恣意的になり、公私混同が進み、退廃していく要素を大きく内包している。

それは、人が、持っている本質的なものに起因するかもしれないが、
 「人は、大金を持ったら、性格が変わる。」などと、まことしやかにささやかれていることは、政治権力についても、いえることである。

わが国日本も、その意味では、政治家や官僚などの一般市民からは、かけ離れた倫理観を形成する特権階級を多く抱える現行の政治体制は、江戸時代のそれと、本質的には、なんら変わらず、ただ、堂々とやっているか、こそこそやっているかの違いで、甘い汁をすする輩のはきだめである。
戦後日本の政治が、何をやってきたかといえば、勤勉で、よく働く国民の上にあぐらをかいて、湧き上がる税収を、能書きを並べて無造作に無秩序に、だだらに、浪費し、その上膨大な借金まで作ってきただけで、その実は、極めて薄く、それは、政治という名のゴシップに過ぎない。
この悪しき風習は、いまだ続いて、とどまるところを知らない。

いつまでも、ずるずると安っぽい議院内閣制を続け、特権化していく意味など、どこにあるのだろうか。
「政治家は、お金がかかる。」という彼ら自身が作ったマヤカシに乗って、年間数千万のお金を費やし、いったい善良な一般市民が、何を得られるというのか。また、得たというのか。

完全なる聖域を作って、安穏としている者たちが、「改革」などと叫んでみたところで、机上の空論に他ならない。
まず、自分たちの給料を減らしてから、ものを言うべきであり、それが、民主主義というべきものの、普通の入り口である。
【2006/01/30 00:45】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
人は、皆、何かについて、天才だ。
私は、むかしから、こう思っている。

人は、皆、何かの天才だ。

ただ、その対象を一生のうちに見つけることができるかの違いだと
それに巡り合う取っ掛かりが、自分以外に与えられるか、自分で探し出してくるかという環境の問題も大きく作用するだろうけれど、本当に自分に向いているものを探して、そのことばかり考えて、努力すれば、他人より前に出られる。
そして、人智を越える領域まで、至ることができると信じている。
全ての人は、今からでも遅くない。年齢も関係ない。
探してみよう。意外なところに自分の才能というものは、転がっているものだ。
天才の本分は、与えられた才能を、探して、みつけて、うちこみ、伸ばして、使い切って一生を終えることだ。

人それぞれ、必ず、何かあるはずだ。
そう信じている。

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【2006/01/26 00:54】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
虚業の果て
虚業というのは、実体のない仕事という意味だが、それが、あばかれてしまえば、哀れなものである。
ライブドアの問題、耐震偽装の問題、小泉内閣の施政方針と一気に流れ出してきたが、それぞれの実態が、露呈するタイミングを待つだけの状態にさしかかってきた。
とかく、日本の現状は、マスコミや世相によって、一極的に流れ、そして、早々に忘れ去られる風潮に長らく陥っているが、ここで踏ん張らなければならないのは、我々一般市民個人個人の良識というやつである。おおよそ、時の人としてでてくる人物たちの中に長らく良識というものをみつけることができないので、結局、個々人の良識に頼るしか取りつく島がない。
国の根幹を担っている政府や政治家、官僚の類を見てみても、いかにも安っぽく、利己的で、まさに空虚である。今回浮上してきた問題についても、利用するだけして、その利用先の按排(あんばい)が悪くなると、捨て去って、己の責任回避の道だけを探ることを繰り返す。
これが、我々が、選挙で選んだ政府、政党、政治家たちの実像なのである。
とっくにライブドアの危うさは、多くの人に知られていた。それなのに政権政党である自民党は、その社長を推し、経済学者出身の竹中氏が、それに気づかなかったと、シラを切り通して、改革と称する泥沼へと善良な国民を誘い込む。
私は、公の人である前に、誠実な人間性の下に、歩んでいくことが、至極当然なことだと思うのである。
間違えれば、悔い改めればいい。それが人間の所業である。それなのに嘘をつき、ごまかし、シラを切り、自己保身に走る。そこに人としての誠実を見ることはできない。
今までの政治家たちが、あまりにもどうしょうもなかったので、よく見えてしまっているが、やっていることは、対して変わらない。
改革というバカバカしいお題目の上に、国民が踊らされ、実際にやっていることは、閣僚、官僚に肝心なことは、マル投げで、国の借金は増え、天下り先を増やし、郵政民営化の名の下にアメリカの外圧に屈する。日本というもともとすばらしい国の価値を下げ、己の虚栄心を満たすだけの、暗愚の首相をいつまでも、かつぎ上げる民意というものが、何とかならないものか。
日本という国は、あくまでも、勤勉でよく働く人口比でほとんどを占める善良な市民の働きで、もってきた。今回の景気回復の兆しも当然それが、全てといってもいい。しかし、この景気回復は、政策の成果だと首相は、吠える。彼は、国民の自助努力を褒め称えたことが、ほとんどない。自らの敷いた得体の知れない改革というレールを、褒め称え、擁護し、絶賛することばかりで、核心部分の精査を全く度外視している。そんなところからも一端がうかがえる。
民意をほとんど反映しなくなりつつある昨今の国会制度、国民のためと言いながら、その実は、利権をむさぼろうとする国会議員の説得に終始するあり方を、根本から変える気がないのなら、それは、改革という名前からは、ほど遠い産物なのである。
彼らが、やろうとした郵政民営化が、族議員や、官僚や、天下りの一派の利権をそいで、アメリカの利権へと移行しただけであることは、いづれわかることであろうけれど、もはや虚業といってもはずれではない政治家業、国が、大借金を抱えつつ、大金を使って無駄に大勢いる政治家を養っていく責務が、もはや一般市民にどれだけあるのか。
もう能書きと、間抜けな顔を見るのは、うんざりである。
そろそろ、政治方面から、まともな、民主主義のにおいをかいで見たいのである。
【2006/01/24 04:41】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
普遍性
人は、今日までの自分と、明日の自分が、違うことにあまり頓着がなく本当は、後退しているか、前進しているかのどちらかで、平凡な日々の中、劇的な何かが、起きない限りは、その歩みの小ささゆえに、気づかないままで、日を負っていく。
月日が、川の流れの如く、元に戻らないのと同様に、人の心も、体も、その時点、地点というのは、一度きりで戻ることがなく、戻すことができない。
それが、人のぬぐいきれない性(さが)で不確定な要素が多いので、どうしても、不安になり、迷い、惑い、行き詰まる。
人の本質は、何とも不安定で、なかなか、安心しきれないところにある。だから、よりどころが、どうしても必要となる。そして、その必要としたものが、普遍的であることを望む。
この最たるものが、宗教であったり、己が信じるところの永遠の愛であったり、友情であったりする。
私は、その信じるところの普遍的なものを、心の中の柱として何本も構築していくことが、不確定で不安定な自分を、信じられるように成れる糸口ではないかと思う。
あくまでも、己が信じるところなので、例えば、何度観ても感動できる映画でもいいし、何度聴いても心の中に響き続ける曲でもいいし、全盛期のスポーツ選手の雄姿であったり、歴史上の人物の爽快な生きざまでもいい。
とにかく、たとえ何年経とうとも、心の中で腐ることのない、古臭くなることのない、心の中で、いつまでも、いつまでも、輝き続ける何かを、探し刻みつける地道な作業を、怠らないこと。
これこそが、健全に前を向いて歩ける自分というものの創り方なのである。
心に刺さって抜けない普遍的な何かを、たくさん柱として持っていれば、人は、前を向いて生きられる。
【2006/01/15 01:54】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
時間
時間は、あても無く流れていく。
人間の中で唯一100%を許されている死へのカウントダウンなのに。
何が無駄で、何が無駄ではないのかさえ、誰にもわからない。
時間には、無駄という概念が、あらかじめないのかも知れない。
悠久の時を経て、発見されていく遺跡や遺物をみて
現代の人々が、感動したり、勉強になったりする。
そんな時、それまで、土に眠っていた悠久の時は、大いなる意味を持つ

ふとそんなことを考えると、一人の人間が、生を得て与えられている時間は、そう多くないことに気づく。
その生が閉じるまで、せいぜい、思ったことをやれるだけやってみることぐらい、簡単なように思えてくる。
所詮、一人の人間が、やり切れることなど、しれている。
それは、先人たちが、十分すぎるほど教えてくれる。
アレキサンダー大王や織田信長でさえ、石垣の跡や、わずかな遺品を遺すのみで、現代にはもう生きてはいない。
しかし、人が、その偉大さを、遺していくのは、心の伝達である。
偉大な心というのは、必ず、のちの人々に伝達される。
それが、時間と人間との関わりあいなのである。
【2006/01/13 03:05】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(1) | page top↑
新年明けましておめでとうございます。
少々、ブログから遠ざかっていたら、もう、1月10日になってしまった。
年末は、師走というだけあって、私も、右往左往していたが、年が明けるちょっと前に、京都に一泊で旅行に行ってきた。
私は、今まで、けっこうあちらこちらに行ってきたが、とりわけゴヒイキニしている街がある。それは、京都である。
京都には、今まで、数十回と足を運んでいるが、その都度、また、行きたくなる。これは、私の中に潜む業(ごう)にも似た衝動で、魂を引き付けられる何かがある。歴史がある。心がある。旨いものがある。何せ、たまらないのである。
今年の正月は、京都錦市場商店街で旨い酒や、旨い食材を仕入れて、最高の新年を迎えることができた。特に焼き鱧(はも)は最高だった。

皆さんにとっての本年も、幸、多かれと祈念して、宜しくご愛読のほどを。
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【2006/01/10 01:27】 | 未分類 | トラックバック(1) | コメント(0) | page top↑
続、愛するということ。
愛するということについて、私自身の体験を少々。
『愛』というものが、発する源は、両親、特に母親の力が絶大で、人それぞれの愛の深さ、情の深さの源泉となることは、逃れられない。

しかし、私は、早くから、その両親の愛情というものに、疑問を持って生きてこなければならなかった。
私が、生まれ育った家庭というものに、小学校の低学年くらいから、疑問を抱いて育った。案外、幼いときから愛想がよかったので、遊びに来る両親の知人によく「うちの子にならんか?」などと冗談で言われたりした記憶があるが、本当に連れて行って欲しいと、私の心が、言っていたことを、昨日のように思い出す。だから、根は、深い。
詳細は、長くなるので、よしておくが、結論から言うと、魂が、根本から違うということに、違和感を覚えざるおえなかったということ。
仮面家族の中で息苦しい思いをして、生活するくらいなら、どこかへ行ってしまいたいと強く思って若い時期を過ごした。
生み育ててもらった感謝の心は、忘れたことは無いが、私にとって、それに余りある虚無感のある家庭だった。
そこで、私は、本来絶対的でなければならない、両親の愛に疑問を持たなければならなかったので、いちから探さなければならなかった。
愛することというのが、わからなくて、最初うちは、好きでもない人に告白してみたりもした。そうやって、自分を確かめてみるしか、出口が無いような、10代だった。
それから、二十歳の時にバイト先で知り合った女性と大恋愛をした。今思えば、彼女との出会いが、大きく私の人生を変えてくれた。抱きしめあうということが、二つの体が、ひとつになりたがっている。そんな熱情を実感できた深い心の結びつきが、そのときできた。
人を、愛することが、できるということに、そのとき、やっと気づけた。それが大きな自信となって帰ってきた。
私の中の空虚を満たすことが、家庭外でもできる。
それ以来、爆発的に外へ、外へと私の心を探求する人生行路が、はじまった。そこから、一人でヨーロッパを、放浪したり、そこから帰ってすぐに、大学に行き東京に長く住んだり、やろうとおもったことを、手当たり次第にやった。もちろん、全て、自分で稼いだお金で完結した。(仕送りをもらうという概念は、私の中には無い。)
私の場合、そのときの深い愛が、人生の舵を切らせた。
それから、いくつかの恋愛を経験し、愛すること、愛されることの難しさ、希少さを、刻んで生きてきた。
結果、大きな愛を持ちたい、深い愛を持ちたい。そう考えるようになった。しかし、自分を磨く作業をやめてしまえば、もろくも崩れ去るはかないものだということもわかった。この愛というテーマは、人間にとって、きっと、永遠に続くだろうが、私にとっては、外からまず、探してこなければ、どこにも無かったということだけ伝えておこう。
【2005/12/08 02:06】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
愛するということ
愛することとは、そう簡単ではない。

しかし、私は、「他人に対する愛」や「自分に対する愛」や「物に対する愛」など、愛には、さまざまな形と度合いを兼ね備えているけれど、それほど、対象について大差はないように思う。

愛着という言葉があるが、最終的にここにたどり着くのではないか。
どこか、心の片隅にでも、着地する切り口を残しているのであれば、それは、愛を持って迎える対象であるし、それが、かつては、着地点を持っていたとしても、今は、もう閉じられてなくなってしまっていれば、それは、もう終わっている。

人間は、着きつ、離れつ、心の作用によって、月の満ち欠けや、潮の満ち引きのように動いて生きていく。
そのときそのときの本当に愛するものに囲まれて生きていくことこそ、真の幸せといえるのかもしれない。

人間の心とは、常に動いている。
浮きつ、沈みつつ生きながら、そこに、すがりつくものは、何かに対する愛なのかも知れない。

私は、その何かに対する愛を、深く持つべきだと思う。
深く、鋭く愛を持って生きることによって、人は、成長することができるのではないか。
怖がらず、溺愛の道をたどるのも、一興か。
愛情や熱情や愛着といったものを、まず、必死で探してみて追いかけてみる人生の妙、ここから、人生の息吹が始まるのではないか。
【2005/11/30 00:26】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(9) | page top↑
輝こうとして生きること
輝こうとして生きることは、きっとどこかで、誰しも持っていることだろう。

ときに一瞬、その瞬間にめぐり合えるときは、これもまた、人生の中にころがっているけど、本質的な解決には、至らないことが多い。

ある人は、カラオケの舞台に立ったとき、ある人は、ギャンブルで大勝ちしたとき、ある人は、会社で他の誰かよりも、営業成績をあげたとき、人によって刹那的に輝ける場所というのは、いたるところにある。
しかし、挙げたような一瞬を手に入れたとしても、ふと次の日一人になれば、また、現実と向き合わなければならない。
それが人生だ。
では、どうしたらいいのか。それは、自分にとって向くべき方角を定めて、一心不乱に、そこに進む努力をすること。
これ以外、道は無い。
向くべき方向を探す過程でほとんど人生が決まる。見つけられないことも多い。
しかし、とにかく自分に正直になって、ぶつかってみる勇気を持つこと。自分を心の底でごまかさない強さを持つこと。自分の人生を全うするビジョンを持つこと。これらを、振り向かずに持ち続ける忍耐力さえ持っていられれば、人は、何かしらかの光を放って生きられる。

とりあえず、どこかへ向かって進んでみる。
間違っていたら、戻ればいい、さがればいい、そこから、這い上がればいい。
本質的に自分を輝かせるのは、これだと決めて、遠回りでもいいから、歩き出せたときから始まるのである。
【2005/11/16 00:54】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(7) | page top↑
パリの暴動
パリをはじめフランス各地で暴動が起きている。
どうやら、移民2世の若い人たちの仕業らしいが、なかなか、救いようの無い事態になってきたようだ。
私は、19のときと28のときに2度、パリには行った事があるが、そうとう階級社会であることが、よそ者の旅行者でも、わかった。パリの街のいたるところには、アラブ系と見られる女性が、真冬の路地で、子供を抱いて物乞いをしていたりする。今思えば、たいへん失礼なことだったかも知れないが、こんな真冬の、雪の降る中、子供を抱いて物乞いをするという想像力が、無かった若かった私は、抱いている子供が、本物かどうか、こっそり覗き込んでしまった記憶がある。
このとき、本物の子供を抱いていたことが、わかって驚愕したことを鮮明に覚えている。
とにかく、貧富の差が激しい街だということは、パリという大都市を、自らの足で歩けるだけ歩いて、体で感じていた。
そんな街で、有名ブランドを、買いあさっている日本人の姿を、横目で見て、たいへん複雑な心境になったことも、昨日のことのように思い出せる。
ちょうど、年代を照らし合わせると、その時に見た物乞いをしていた母親に抱かれていた子供たちの年代が、この暴動騒ぎを起こしている年代に一致する。
社会に鬱積した負のパワーというのが、こういった形で出てしまうのは、非常に残念なことだけれど、あの繁華街の中、小さな乳飲み子を抱えて物乞いをせざるおえなかった母親の心を深く刻んで育った子供たちが、やり場の無い怒りを、最悪の形で爆発してしまった彼らの思いを、遠くからではあるけれど、想像すると何ともいたたまれない。
日本も含め、自由や平等を、プラカードののように掲げている国は、たくさんあるが、その実態は、得てしてこういう結末を迎えている国は、少なからずある。
平等という名目のもと,実際は、特権階級をあみだしていこうとする本音とたてまえの政治構造は、西側民主主義各国には、腐るほど見受けられるのである。
問題は、弱者救済の理念が、根底に流れているのか、ここに疑問が持たれる。
【2005/11/08 02:37】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
人間の本性 その2
もうひとつの出来事は、2年前のことになる。
これはまた、人智の及ばないひどい状況が訪れた。
状況は、こうだ。
・父親が、ガンで倒れて、闘病生活に入ってしまった。
・娘が、生まれながらに病院にかかることになり、入退院の繰り返し。
・それにかかる一月の入院費が、月収の2.5倍。
まさに、右も左も向けない状況に陥った。それも、前触れも無く。
そんなときに、愛犬が、人をかんでしまったり、家族が、車をぶつけてしまったり、ここには書ききれないくらい、嘘の話のような不運が、一気に降りかかってきた。
本当に自分の命まで、見えない何かが取りに来ているのではないか。と思えるくらい、自分の力ではなんともできない状況。
一般的には、めったに無い状況だけれど、僕は、そのとき何を思ったか。
自分を試すということにストイックに生きてきたというのが、こんなとき意外と役立った。不気味だけれど、ニヤリと笑えたのである。
「これは、試されている。」
そう取ったのだった。このとき、これが、僕の本性だということがわかった。
まさに絶体絶命の状態に追いやられた自分の状況を、楽しんでやろう。
やるだけやって、だめならそこまでだ。
その時に、もうひとつ頭によぎったのは、織田信長の絶体絶命に追い込まれた時の数々の逆転劇だった。特に信長包囲網を敷かれたときの切り抜け方、これを、体に染み付けておいたのが、効いた。
信長は、軍勢や民衆を統制して切り抜けた。個人のことで四苦八苦している自分が、どれほど小さいことか。たかだか、一家のことを、乗り切れなくて、何者にも成れるはずが無い。
そんな思いで、一家としては、存亡の危機となるほどの状況を切り抜けられた。
結果的に父親は、病魔に勝てずこの世を去り、娘は、まだ、病院にかかっているけれど、今とこのときとの大きな違いは、人生のなかでも、もうないぐらいの絶体絶命な状況を切り抜けたことによる自信を得た事と「ピンチの後には、チャンスあり。」という野球界の格言を信じて、会社を辞めて自営の道を歩み出せたこと。
このときの苦境は、死ぬまで忘れないと思うが、土壇場でようやく確認できた自分の本性と向き合って、自分の道を極めたい。
【2005/10/31 16:52】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(4) | page top↑
人間の本性 その1
人間は、本来、みんな弱いものである。
これを本当に理解するまでには、少し時間がかかる。
自分の本当の強さだとか、弱さだとかいうのは、自分の中での本当のピンチに遭遇するまでは、なかなかわからないものである。
これは、ほとんどの部分を、自己暗示をかけて強さや弱さを、自分なりに強調して生きていかなくてはならない社会的習性を持つ生き物だからである。言い換えれば、野生に近い本性むき出しでは、生きづらい生き物であることがいえる。
だから、誰しも自分でもわからなくなるぐらい本性というものが、まぎれてしまう。
自分の本性って?形容すれば、竜なのか蛇なのかミミズなのか、心の中に潜み見えつ隠れつする生き物みたいなものとできるか。
僕の中でこんな二つの事があった。
ひとつは、20代の前半頃だったけれど、けっこう無茶をして、やろうと思ったことを、ひと通りやってみて結果が出なかった。残ったのは、財布に7円にアパートで一人。明日の収入のあても無い。電話も電気も水道も止められていく。豊かな日本の中で考えられない過酷な状況に陥ってしまった。
阿呆といわれるかも知れないが、自分というものの本性を殺して、生活の維持のために働くことに早くから、疑問を持っていたので、
”自分の本性に即したなにものか”に成れなければ、己の価値など無い。と固く信じていたので、これも天命と思い家にこもった。
やるだけやった。そんな思いのもと、そうなったのなら甘んじて受けようと心を決めた。つまり、自分の人生を天に託したわけだ。そのとき、自ら命を絶とうという心持は一切無かったが、一切食べられない日が、何日も続いた。誰にも、助けを求めない。自分の中での葛藤。自分の心根は、本当は何なのか。阿呆というかストイックというか、それこそ自分の本性というものを、健全ではない形で試してみたのだ。
そして、10日が過ぎた。本当の飢餓状態というのが、訪れた。頭の中をさまざまなことが、めぐり始めた。いっこうに、何の明かりも見えない。自分は、いったい何者なのか。という問いかけの繰り返し。このまま、餓死していく定めなのか。それが、だんだん”無”という胸中に達していく。極限状態だった。
そんななか、12日目の午前中に一人の来訪者があった。以前職場で一所になったNさんという飲み仲間だった。年は、父親より上で、仲良く大酒をあおった仲だった。「どうしてるかなと思って。」そんな訪問だった。たまたま、家が近所だったので、忘れた頃にお声をかけてくれる気の合う友達だった。僕は、そんな状態だったけれど、一切状況を説明することなく、いつものように愉しく語り合おうとしていたけれど、そんなとき「腹減ってない?」などと聞くような野暮なこと言い出すNさんではなく、状況を察してくれたのか、1万円を差し出して、「好きなもの、買ってきて。」などと言ってくれた。内心ありがたいと思ったけれど、拒む自分が、まだそこにあった。信じられないけれど、断れる自分が、そこにあった。そこでNさんは、「俺が、腹減ったから」などといってくれる。結局、押し切られて近所にコンビニにいくこととなった。そのうち2,3000円を使って、その場で2人食べるものをかわせてもらって、帰ったら、「全部使ってくれて良かったのに」などと言ってくれた。これは、神の仕業なのか?そんな気さえした。
そこでいつもの談笑が、始まったけれど、僕にいつものようにしきりに言ってくれることがあった。それは、「俺は、信じている。絶対おまえは何かができる男だ。」ということをこのときも強く強くに言ってくれた。
飢餓状態で、遠慮して買わせてもらった食べ物と励ましの言葉。
そのとき、ようやく目が覚めた。
まだ、自分には、やらなければならないことがある。死ぬわけにはいかない。
その時にNさんが来てくれなければ、間違いなく今は無い。
神の仕業なのか?Nさんが、来てくれたから今がある。
深い感謝の念が、湧き上がるのである。
今となっても、まだ、Nさんが言ってくれた、”何か”ができるまでは達していないが、ようやく、足がかりのようなものまで、たどり着けた。その時にわかった自分の、本性の中に一点の澄んだところを持ちあわせていたことが、今の生へとつながっている。
ふと今でも、そのときのことを考えると、感謝の思いと不思議な思いが交錯して、人間というのは、生きているのではなく、生かされているんだということを、つくづく思うのである。
つくづく感謝!!
【2005/10/30 02:58】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(0) | page top↑
歴史のススメ
「歴史」というと、案外日本人は、毛嫌いする人たちが多いような気がする。
これは、暗記科目にしてしまった日本の歴史教育の誤りが、そうさせていることが、多分にあると思うけれど、一歩進んでみるとなかなか面白い。
そこで「歴史」というジャンルをどう捉えるか。
だけれども、これを、人間ドラマの集大成として捉えてみてはいかがだろう。
人間ドラマ、そう捉えるとわかりやすい。ほぼ一冊で、偉い人や凄い人やむちゃくちゃな人の実際あった人生が、疑似体験できる。
これを、たくさん知っていて損はないのではないか。
だって自分の人生の明日のことなんて誰もわからない。
たくさんの人生のパターンを頭の片隅に入れておくと、これが、意外と役に立つ。
そこそこ、いろいろ読んでいくとその人生のターニングポイントのようなものが見えてくる。これが、ミソである。
自分の中だけの狭い感覚やこだわりだけで生きていこうとすると、選択肢を自分で狭めてしまうことがよくある。
そんな中、例えば、坂本竜馬が、住み慣れた故郷を捨て、家族を捨ててまで、真っ暗な山の中を希望と使命感だけを胸に走り抜けていくときの心境を想像してみたとする。
これが、自分の人生に想像力を付け加える手助けをしてくれることになる。
今と必ずしも環境は、一致しないことがあるけれど、その中でも、自分の人生と照らし合わせる想像力を持ってみること。
これができれば、いずれ、必ず誰にもやってくる決断の時々を、乗り越えるヒントと成って帰ってくることを約束しよう。
僕は、この歴史の本を10代の頃から、読みあさった。今でも、読み続けているけれど、何をここから学ぼうとしてきたか。
それは、人生のヒントが隠された宝の山だということに早くから、気づいたから、それを、予習して頭の中に叩き込んでおくことが、必ず、役に立つときが来ると確信していたから、そこのところを学んできた。
最後に昔の人は、よく言った!!という一言を
   ”温故知新”
意味は、昔の人々の営みの中には、今の人でも気付かないような、物凄く新しい発想が、いっぱいあるということ。
ご参考までに

テーマ:歴史小説 - ジャンル:本・雑誌

【2005/10/21 23:49】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(6) | page top↑
読書のススメ
本を読むことは、人格の形成にたいへん重要だ。
本を読むということは、理解をするために一度作者の考えを素直に入れる作業が必要なので、頭の扉を少し開けることになる。
この頭を解き放つ作業を繰り返さなければ、錆び付いてしまう。
頭が、錆び付けば、人間自体が錆び付いてしまう。
よく観念的で、頭の固い人と接するが、経験上、本をあまり読まない人が多い。
つまり、狭い自分の考えの中だけで何年も何年も日々を過ごせば、どんどん自分の本能的な部分に依存した人格が形成されていく。
しかし、この読書も、同じ分野のものばかり読むのは、かえって逆効果になることがある。
読書も食べ物と同じでバランスが必要だ。頭の中も、同じものばかり吸収していると、周りが見えなくなってしまう。これもまた、本を読まない人同様に凝り固まった人格ができやすい。
よりしっかりしたグローバルな自分を創ろうと思うのなら、あらゆるジャンルの本を乱読してみることだ。
そして、広い見識、知識を身につけて、芯の強い自分を創る。
一見、本を一冊一冊読んでいくことが、遠回りで面倒くさそうに思えるかもしれないけれど、これが、一番の近道だ。
読書から得た知識が、やがて「知恵」にかわることに気づけば、これが、大いに人生に幅を持たせる。
人生で窮地に立ったり、逆に最大のチャンスにさしかかろうとしたときに最強の武器になる。
私は、この本を読むということが、20年くらい習慣になっていて、いまだに、手当たり次第に本を読みあさっている。おかげで、自宅は、本の山だが、まだまだ読み足らない。それだけ、私にとって、本を読むことは、人生の中で大いに役立ってきた。
もちろん、本を読むだけでは、人生の成就はありえないので、当然、そこで得た知恵を、できる限り実生活で役に立てなければならない。
しかし、いつ今読んでいる本が、役に立つかは、わからない。だから、よりたくさんの本を読んで、確立を上げるのだ。
読書から得た幅広い見識は、必ず人生の役に立つ。
そう信じて読み続けるのである。

テーマ:コラム - ジャンル:日記

【2005/10/17 17:03】 | 未分類 | トラックバック(0) | コメント(2) | page top↑
一所懸命になる。
一所懸命になること、これは、たいへん大事なことだと思う。
あたりまえのようだけれど、これが、なかなかできない。
それは、一所懸命にやってるつもりになってことが多いからだ。
一所懸命にやるということは、その場面場面で、ベストを尽くすということだが、どうしても基準が自分の中になってしまうので、甘くなりがちで、他人から見れば、大したことなかったりする。
そこに、少し周りを振り返って客観性という余裕を入れると、案外自分の頑張りが見えてくる。
嫌な事だって、ちょっと気合を入れてやってみる。
そうすると、他人のためになっていたり、やる前より嫌じゃなかったりする。
嫌なことも、好きなことも、ちょっとだけ頑張ってみる癖をつけてみる。
そうすれば、その頑張りだけ前に進んだ自分に気づく。
そして、その積み重ねが、大きな自分を創る。
【2005/10/12 04:13】 | 未分類 | トラックバック(1) | コメント(2) | page top↑
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